会社情報:國友銃砲火薬店

國友の原点

國友銃砲火薬店のルーツは國友鉄砲鍛冶

國友の歴史:國友村 江州國友(滋賀県長浜市)には古くから刀鍛冶が有名な土地でした。

 1544年(天文13年)種子島に伝わる鉄砲を知った将軍足利義晴が鍛冶氏國友善兵衛に鉄砲の製作を依頼したのが、國友鉄砲鍛冶の始まりです。

 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで、その上質の鉄砲に注目した織田信長は日本で初の鉄砲を使用した戦を行いました。これは國友鉄砲鍛冶の製作でした。こうして、火縄銃ブランドの地位を確立した國友鉄砲衆は、信長の下で量産体制に入っていきます。

 1575年(天正3年)、長篠の戦では大量生産の國友製鉄砲により信長は一斉射撃の新戦法で武田勝頼に大勝利を得る事ができました。戦国時代、戦の新しいスタイルの幕開けです。

國友の歴史:鉄砲 信長亡き後、國友は豊臣秀吉の御用商となりました。一方で、その精巧な銃を高く評価していた徳川家康は1604年(慶長9年)、多種多様の銃砲の製作を國友に大量発注をし、大阪冬の陣に使用しました。昼夜を問わず、大鉄砲にて攻められた大阪城は陥落し、徳川家康は豊臣から天下を勝ち取ったのです。この頃、國友村は500名程の大所帯の鉄砲鍛冶集団でした。鍛冶師たちは、他の姓を持ちながら鉄砲制作時には「國友」の銘を火縄銃に打ちました。

 「國友」という鉄砲工場で制作された鉄砲だから品質が保証されている。そのような品質を示すブランドとしての「國友」は、江戸時代を通して一流であり続けたのです。

 こうして、國友は、信長、秀吉、家康とその庇護のもと成長し、江戸時代には幕府直轄の銃砲製造所となりました。

(参考:「國友鉄砲記」「江戸時代の科学技術」 )

江戸時代 −平和の時代に新たな技術を

國友の歴史江戸時代初期が幕府御用鍛治として國友鉄砲鍛冶の黄金時代でした。しかし太平の世になると武器の必要性もなく、鉄砲の受注は少なくなり鍛冶師たちは金工彫刻や花火などに活路を見出していきました。

江戸時代後期には、「東洋のエジソン」とも称された科学者・國友藤兵衛一貫斎が登場します。一時期、活気を失った國友は、國友藤兵衛一貫斎の出現でその技術と知識がより発展し受け継がれることとなります。

國友の歴史:一貫斎の望遠鏡一貫斎は、秘伝の鉄砲製法を公開し、気砲(空気銃)や反射望遠鏡などの数々の発明を重ね、自作の望遠鏡で日本で初めて天体観測をおこない詳細な記録も残されています。そのため滋賀県国友村(現長浜市)は、日本の天文学発祥の地とも言われています。

こうして、鉄砲鍛治達は生活の道を探すため金工彫刻や花火の製造の技術等、金物や火薬に関する技術も磨いて行きました。

國友の花火

花火は合戦のとき味方に送る「のろし」が元祖といわれています。江戸時代の花火は、黒色火薬中心の弱々しい光と色でしたが、町衆文化の隆盛とともに花火も全国的に盛んとなりました。國友の花火師は関西を中心に備中(岡山県)から備後(広島県)まで招かれその技を披露しました。

現在の國友銃砲火薬店へ

國友の花火(琵琶湖花火大会にて)明治に先々代國友藤九郎が京都に上洛し、國友銃砲火薬店を創業したのが現在の株式会社國友銃砲火薬店の始まりです。

花火は戦時体制のもとで制約を受けていましたが、戦後、昭和22年には煙火(花火)打上げ請負業を開始しています。はやくから、煙火打ち上げにコンピュ−タ−を導入し、音楽との融合など最新技術での花火大会をプロデュ−スをしています。

國友鉄砲鍛冶に関するリンク

→ 國友鉄砲の里資料館
國友鉄砲鍛冶発祥の地、滋賀県長浜市國友町の「國友鉄砲の里資料館」(館長:國友昌三氏)のサイト。
→ 國友一貫斎 - Wikipedia
Wikipediaにある「國友一貫斎」についての説明ページ。
→長浜城歴史博物館
長浜城歴史博物館は長浜と湖北地方についての歴史博物館。『国友鉄砲鍛冶−その世界−』(昭和60年発行)という國友鉄砲衆についての貴重な文献を出版。